日本初の国際合作映画。世界中で封切られた超大作!
日本初の国際合作映画として製作された本作は、「聖山」、「死の銀嶺」、「モンブランの嵐」などレニ・リーフェンシュタールが出演した山岳映画で知られるドイツの巨匠アーノルド・ファンクと、日本の伊丹万作(伊丹十三の父)による共同監督作で、1937年(昭和12年)に日本国内はもとより、ヨーロッパを中心に世界各国で公開されて大ヒットを記録。ドイツ語のタイトルは『Die Tochter des Samurai』(侍の娘)。
撮影当時16歳、息をのむ美しさ。伝説はここから始まった
デビューして間もない原節子が主役に抜擢され、銀幕の大スターの輝かしい出世作となった。
洋装、和装、セーラー服、剣士姿、さらには水着姿を披露する貴重なシーンもあり、若き原節子の瑞々しい魅力が全編にあふれ、宝石箱を開くような煌めきと驚きに満ちている。
日本を代表する国際スター早川雪洲がヒロインの父を、内田吐夢監督作品で強烈なヒーロー像を演じ人気のあった小杉勇が許婚の青年を演じるほか、英百合子、中村吉治、高木永二、市川春代など錚々たる顔ぶれが脇を固める。
日本全国で長期ロケーション撮影を敢行
クライマックス・シーンは、北アルプス上高地・焼岳にて撮影
富士山、阿蘇山、浅間山、上高地、焼岳、別府、瀬戸内海各地、宮島、松島、東京、鎌倉、大阪、京都、瑠璃渓、奈良、神戸、水戸、福井、新潟、信州姨捨、潮来、琵琶湖など、驚くほど様々な地域でロケーション撮影が長期に亘って敢行され、その多くに原節子が同行した。
山岳映画で知られるファンク監督は、右腕である名カメラマン、リヒャルト・アングストを撮影に起用。特にクライマックス・シーンは、北アルプスの上高地から焼岳の急峻で危険な火山山域で行われ、類を見ない緊迫感と迫力あるシーンとなった。
若き円谷英二による、日本初の本格的な特撮
日本初となる本格的なスクリーン・プロセス撮影(特殊撮影技術の一つ)が、若き日の円谷英二の手によって行われ、日本の映画技術に新たな扉を開いた作品でもある。
当時は未だ特撮という言葉は使われていなかったため、円谷英二の名前は撮影協力としてクレジットされた。
音楽は山田耕筰。挿入歌の作詞は北原白秋、西條八十
音楽の作曲は山田耕筰。北原白秋と西條八十が劇中に挿入される歌の作詞を担当。
現在のNHK交響楽団の前身である新交響楽団と、東京フィルハーモニー交響楽団の前身の中央交響楽団という当時の日本を代表する二つのオーケストラが演奏を行っている。
世界を一周した破格のプロモーション・ツアー
1937年、国内での封切りから約一月後の3月10日、原節子は川喜多長政・かしこ夫妻、原の義兄の熊谷久虎監督と共に、満州からモスクワを経てベルリンに向かい、ヨーロッパの主要都市をめぐった後、ニューヨーク、ハリウッドを訪問するという、前代未聞のプロモーション・ツアーに出発した。
翌日の新聞には、東京駅から下関に向かう原節子を一目見送ろうと、およそ二千人のファンが東京駅のホームに殺到して、原の姿を追いかけ右往左往して大混乱となった様が大きく報じられている。
3月14日、一行は大連に到着。翌日には奉天に着き、ここで原は軍務についていた長兄の武雄(後にシベリアで戦病死)と会っている。その後新京、ハルビンと移動しラジオ出演。3月17日にはシベリア鉄道に乗車。翌日、満ソ国境の町満州里に着くとそこでも『新しき土』は上映されていて、川喜多かしこは日記に感慨と喜びを記している。
モスクワ、ワルシャワを経て3月26日にベルリン到着し、出迎えたファンクらと再会する。早速、翌27、28日と振袖姿の原による舞台挨拶が行われ、劇場は万雷の拍手に包まれ、幾度となくカーテンコールが繰り返された。その後、原は熊谷監督と共に30か所以上のドイツの都市を回って舞台挨拶を続けた。
『新しき土』は、およそ2ヵ月で2,600の大小劇場で上映され、600万を超える動員を記録。ドイツ国内のロング・ラン記録を更新。フィルムは欧州13カ国に発送され、さらに続々と上映申込が舞い込んだ。
5月21日に一行はパリに入る。原はパリでは比較的自由な時間を過ごし、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルイ・ジューヴェ、ミシェル・シモン、ジャン=ルイ・バローなど、フランスの映画人にも多く会っている。
6月17日、豪華客船クィーン・メリー号に乗船しシェルブールを出港した一行は、6月21日にニューヨークに到着。7月6日にはロサンゼルスに入り、ここで原は、マレーネ・ディートリッヒとジョセフ・フォン・スタインバーグのコンビと会食し、ガブリエル・パスカル、スペンサー・トレイシー、ケーリー・グラント、タイロン・パワーといったハリウッドスターや監督、プロデューサーと会っている。
7月12日、4箇月をかけて世界を一周した一行は、龍田丸に乗船して帰国の途についた。