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新しき土

監督・脚本:アーノルド・ファンク伊丹万作
撮影:リヒャルト・アングスト、上田勇、ワルター・リムル
撮影助手:ハンス・シュタウディンガー
演出助手:ワルター・ジャーデン、ヘルベルト・チャーデンス
撮影協力:円谷英二
美術・装置:吉田謙吉
衣装:松坂屋
模型:浅野孟府
編集:アリス・ルートヴィヒ、アーノルド・ファンク
録音:中大路禎二
音楽:山田耕筰
作詞:北原白秋、西條八十
演奏:新交響楽団、中央交響楽団
製作:Dr.Arnold Fanck-Film、J.O.スタジオ、東和商事G.K.
プロデューサー:川喜多長政、大沢善夫、アーノルド・ファンク
進行:カール・ブーフホルツ


リヒャルト・アングスト/伊丹万作/原節子/アーノルド・ファンク

■アーノルド・ファンクについて
 山岳映画というジャンルを切り拓いた先駆者として有名なファンクは、1889年3月6日、ドイツ西南部のプファルツ地方(現在のラインラント=プファルツ州)のフランケンタールという工場町に生まれた。
 2歳の頃に大病を患って以来、病気がちで家にこもる幼少時代を過ごしたが、10歳のときに保養地として名高く、現在ではスキー・リゾートとしても有名なスイスのダヴォスに移り住み、その地で健康を得た。その後、父親の死去に伴ってスイスに近いドイツ南西部の都市フライブルク・イム・ブライスガウに転居したが、アルプスの山や湖に囲まれるダヴォスで過ごした数年間は自然に対する関心を育み、殊に山や山岳スポーツに対する情熱は彼の生涯を貫くモチーフとなった。
 自然科学の研究に関心を持ち、古典的な高校のカリキュラムには全く興味を抱けなかった彼は(「成績不良の生徒としてクラスからクラスへとうろついていた。」と後に自ら記している)、先ずは写真技術の習得の道に進んだ。その後、アビトゥーア(大学入学資格)を取得して、大学では地質学の研究に没頭し、スイス・ザンクトガレン地方に固有の地層と化石についての論文を書き上げている(論文は第一次世界大戦時の混乱で失われてしまったが、彼は後にその梗概をチューリッヒ大学に提出し、博士号を取得した)。また、学究と同時に、引き続き写真撮影にも情熱を燃やし、最先端の撮影術と理論を身につけていた。
 20代前半、先ずスキーヤー・登山家としてとして認められていたファンクは、1913年にツェルマットからモンテローザを登るスキー旅行計画を立てた際、フライブルグのヴェルト・キネマトグラフ社という映画会社と契約を結び、スキーの記録映画の出演者兼スタッフとして初めての映画撮影を経験する。この時から自らスキー映画を撮る夢を抱くが、翌年には第一次世界大戦が開戦し、実現は終戦を待つこととなった。
 第一次世界大戦中はカールスルーエの病院で救急士として働いていたところ、軍命が下り、諜報部で写真技師として困難な任務にあたったとされるが、詳細は定かではない。
第一次世界大戦後の1920年、スキーヤーとして高名な物理学者タウルン博士と「山とスポーツフィルム社」をフライブルグにて創立。『スキーの驚異』(1922・無声)、『アルプス征服』(1924・無声)といった山岳スポーツを題材とした映画の製作・監督を始める。
 『聖山』(1926・無声)で、ダンサーだったレニ・リーフェンシュタールを主演に起用。実験的な表現と、冬山登山の死を賭した緊迫感と、メロドラマの要素が混在したこの作品は、その後作られた全ての山岳映画に影響を与えたと云える。
 続いて『死の銀嶺』(1929・無声)、『モンブランの嵐』(1930・トーキー)、『白銀の乱舞』(1931・トーキー)と、レニ・リーフェンシュタールを主演に、山岳映画の傑作を次々と生み出す。1932年は『SOS氷山』に取り組み、グリーンランドで長期のロケを行う。1934年には『モンブランの王者』、続いてそのフランス語ヴァージョンの『永遠の夢』を撮るが、ドイツとの関連性が希薄であったことや、プロデューサーのグレゴール・ラビノビッチがユダヤ人であったために、ファンクは苦しい立場に追い込まれる。ナチス宣伝相ゲッベルスに叱責された時、ファンクは「閣下、私はこれまで4千メートル級の山で撮影してまいりました。その私が、どうして急にツーグ・シュピッツェ(ドイツ共和国の最高峰だが、3千メートルに満たない)の上で撮れましょうか?」と言ったと伝えられる。
 1936年、来日して『新しき土』を制作。
 1940年、ファンクは映画を撮り続けるために、遂にナチス入党を余儀なくされる。
 終戦時には、ベルリンを離れてフライブルグに戻って暮らしたが、再び映画を撮ることは叶わず製材業者として働いた。1974年フライブルグにて死去。

■伊丹万作について
 日本映画の礎となった監督の一人である。映画監督・俳優の伊丹十三は実子。
 1900年(明治33年)愛媛県松山市湊町に生まれる。本名は池内義豊。正岡子規や秋山真之が学び、夏目漱石が英語教師として教壇に立ったことでも有名な旧制松山中学に学ぶ。在学中は同人雑誌を作り、終世の友となる中村草田男や伊藤大輔などと文筆を競った。
 1917年(大正6年)松山中学卒業後は画家を志し、叔父を頼って上京。その後、松竹キネマ付属の俳優学校に通い始めた伊藤と同居するようになる。
 伊丹は挿絵画家「池内愚美」として、少年雑誌の挿絵などを描いて人気も得たが、その人気を捨てて本格的な画家を志すうちに行き詰まり、1926年松山に帰省する。
 郷里では友人とおでん屋を開くが失敗。無一物となり再度上京する途中、その頃すでに日活で監督として活躍し、大河内傳次郎とのコンビで飛ぶ鳥を落とす勢いだった伊藤大輔を頼って京都に行く。伊藤は伊丹にシナリオを書くことを勧め、後に自ら映画化する『花火』等のシナリオを書く。伊丹万作の名はこの時分に伊藤がつけたものである。1927年、谷崎十郎プロに俳優として入社。翌年、伊藤の推薦で片岡千恵蔵プロダクションに脚本家兼助監督として入社し、自身の脚本による作品『仇討流転』(1928・無声)を初監督する。その後『春風の彼方へ』(1930・無声)、前述の『花火』(1931・無声)、『国士無双』(1932・無声)など、機知に富んだ作品を次々と生み出す。
 新興キネマで、トーキー第1作『忠次売出す』(1935)を作った後、千恵プロに戻ってナンセンス喜劇『気まぐれ冠者』(1935)を監督。ファンクはこの作品を見て伊丹を高く評価した。1936年、志賀直哉の短編を縦横無尽に脚色した、日本映画史に残る傑作『赤西蠣太』が生まれる。
 『新しき土』を経て、『権三と助十』(1937)、「レ・ミゼラブル」の翻案 『巨人伝』(1938)を最後に、すでに胸を病んでいた伊丹は、病気療養の生活に入る。
 病床にありながらも、『無法松の一生』や『手をつなぐ子等』などのシナリオを書いたが、1946年9月21日、46歳でその生涯を閉じた。



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